岡崎庵とその歴史
映画「夜の蝶」のモデルにもなった元芸妓さんが建てた能舞台のある豪邸です。 神宮道の「平安神宮大鳥居」(高さ24m、幅18m)から徒歩3分です。 周辺には、京都市京セラ美術館(京都市美術館)、京都国立近代美術館、京都市勧業館 みやこめっせ、ロームシアター京都(京都会館)などがあります。
Updated Date : 2025-02-22 19:53:49
Author ✎ Kyoto Culture
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岡崎庵へのアクセス
地下鉄 東山駅 徒歩8分 市バス 岡崎公園美術館・平安神宮前停留所 徒歩3分 住所  〒606-8344     京都市左京区岡崎円勝寺町91−65 岡崎庵からは、文化的景観に指定された京都・岡崎の景色が一望できます。
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岡崎庵の歴史
元芸妓(本名:上羽秀)が豪邸「岡崎庵」を建設
1989年(平成1年)12月祇園の元芸妓「そめ」(本名:上羽秀)が能舞台付きの豪邸「岡崎庵」を建てた。
上羽 秀
上羽秀 - Wikipedia
上羽 秀(うえば ひで、1923年(大正12年)1月15日 - 2012年(平成24年)10月1日)は、川口松太郎の小説『夜の蝶』、および同名の映画のモデルとなった人物。 舞妓修行のため、単身、東京新橋の花柳界へ上京した。 新橋置屋藤間流の仕込みっ子として育てられた。 3年が経過し、15歳になる頃にようやく舞妓として売り出される運びとなったが、母親の強い意向により、京都へ連れ戻されてしまった。 1938年(昭和13年)15歳に芸妓「そめ」として祇園からお見世出し。 すぐに売れっ子となり、座敷を回り切れず、一つのところにゆっくり留まることができなかった。 そこで、秀の贔屓筋が宴席を一緒に持つ「おそめ見る会」が立ち上げられた。 秀が座敷を回るのではなく、客が秀の元へ一堂に会するという趣向で、その人気ぶりは過熱した。
1948年(昭和23年)木屋町「おそめ」開店。カウンターに5、6人がようやく腰掛けられる小さなホームバー。 1955年(昭和30年)銀座3丁目「おそめ」開店。 秀は土曜日に京都に帰り、火曜日に東京へ発つ生活を送るようになった。 飛行機で伊丹と羽田を往復する秀は、雑誌や新聞に取り上げられるようになり、「飛行機マダム」や「空飛ぶマダム」として世間に知られるようになった。 1957年(昭和32年)『中央公論文藝特集』5月号に、川口松太郎の短篇小説『夜の蝶』が掲載。秀をモデルとしており、秀は一躍時の人となった。 1957年7月28日公開 映画『夜の蝶』(監督:吉村公三郎、原作:川口松太郎、主演:山本富士子) 東京の店は銀座8丁目へ移転され、さらに大きく改築がなされた。 1960年(昭和35年)京都の店も御池通へ移転し「おそめ会館」として新装開店。 1978年(昭和53年)2月、お店をクロージング。 一時は夜の街の代名詞として一世を風靡した店は静かにその灯火を落とした。 その後、秀は1989年に京都の岡崎にが能舞台付きの豪邸「岡崎庵」を建てた。
上羽 秀の夫:俊藤 浩滋
●俊藤 浩滋(しゅんどう こうじ、1916年11月27日 - 2001年10月12日) 上羽 秀は、俊藤 浩滋の後妻。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E8%97%A4%E6%B5%A9%E6%BB%8B 日本の映画・テレビドラマのプロデューサー。 俊藤は、40代半ば過ぎに映画界に迎えられ、300近い任侠映画のプロデューサーとして活躍した。 俊藤は、「任侠映画の父」、「『仁義なき戦い』を作った男」、東映の大プロデューサーと評された。 女優の富司純子は娘。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%8F%B8%E7%B4%94%E5%AD%90 孫に女優の寺島しのぶ、歌舞伎俳優の五代目 尾上菊之助がいる。
上羽 秀をモデルとした映画、演劇
演劇:『夜の蝶』ダイジェスト映像
六月花形新派公演 夜の蝶 会場 三越劇場 日程 2019年6月6日(木)~28日(金)
三越劇場 花形新派公演 『夜の蝶』ダイジェスト映像
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