「方広寺大仏殿」の建立に尽力した武将の寺と墓 『慈芳院』
豊臣秀吉の側近で方広寺大仏殿の建立に尽力した山中山城守長俊が、妻の菩提を弔うため建立したのが慈芳院。「京都の史跡を訪ねる会」のウオーキングの道すがら、たまたま目にとまった謎の石標の背景をリサーチしてみた。その結果をレポートするものである。山中長俊は近江六人衆の一人で著書に「中古日本治乱記」がある。
Updated Date : 2024-03-18 10:52:22
Author ✎ 京都再発見
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長俊が東山五条に居を構えて方広寺の建築に携わり、屋敷を妻の菩提寺としたのは寺名の「慈芳院」が長俊の妻の法名と同じことからわかる。 余談ながら、同じく方広寺の造営に協力した木食応其(もくじきおうご)上人の草庵が現・半兵衛麩(下京区問屋町五条下ル)の庭だったことを思い出し(上人町の町名のいわれ)たが、京都は実に奥深い。
慈芳院の山門
山門の左手に見えるのが、謎だった石標。
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本堂内陣
大聖不動明王。なお当寺院の本尊は薬師如来である。
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山門をくぐり左側の覆堂
鎌倉時代中期の作とされ、高さ約1.8m。向かって左手には、不動明王と観音菩薩の石仏、右手に薬師石仏が安置されている。
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山中長俊の墓
戒名=「松雲院殿前城洲太守往林紹春」 「注」長俊は伏見城の秀吉の御殿の一部を坂本の西教寺に移築-寄進しているが、西教寺にあるのは長俊の墓ではなく夫人の墓である。
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石標「豊太閤記室山中山城守長俊公墓道」
山門の左手に見える問題の石標。表側は「豊太閤記室山中山城守長俊公墓道」、裏側には大正元年12月慈芳院住職・信徒総代が建立とある。これは現在地に移転する前のお墓の道標として作成されたものに違いない。
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現在地に移転する前の所在地
現・東山五条シティーホール(東山区東大路通り五条下ル東側)
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慈芳院
34.993688307375
135.77511230483654
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