無名舎(吉田家)の富岡 鉄斎(とみおか てっさい)で町家を大いに愉しむ!
富岡 鉄斎は京都で生まれ明治・大正に活躍した文人画家。 車折神社の宮司も任めた。 「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」 鉄斎は京都では、今でも現役のデザイナー、コピーライター。 お店の看板や包装紙で、今も生きて大きな影響を与え続けている。 無名舎で「幽居養性真」を磨き「豐樂」を愉しむ。
Updated Date : 2022-03-19 18:27:51
Author ✎ Kyoto Culture
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無名舎(吉田家)の鉄斎
豐樂 吉田氏 鉄斎
読み方:ぶらく ※豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」であり宴会を意味する。 豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E6%A5%BD%E9%99%A2
現在地に、吉田孝次郎氏の祖父・友七氏が、1909 年(明治 42 年)無名舎・吉田家を建築。 その新築に合わせて、鉄斎による揮毫の扁額を掲げる。 さらに孝次郎氏が掛け軸として修復。 吉田友七が産まれたところは、四条通南側の函谷鉾の町内。 さらに、南観音山の町内へ移転。 そして現在地へ移転。 商いが大きくなるに連れヤドカリのように殻を脱ぎ捨て、次の大きな殻へ変わっていったそうです。 孝次郎氏の父親である友三郎氏は、この扁額の部屋で、毎夜、2-3時間お酒を楽しまれたそうです。 また、孝次郎氏は、鉄斎のある空間で生活したことを誇りに思い人生に大きな影響を受けたそうです。 ※参考 http://www.beautiful-kyoto.org/images/nenpou2011.pdf
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幽居養性真 鉄斎
読み方:ゆうきょようじょうのしん 幽居 :世俗を離れ 養性真:本質を養う
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福者内 鬼はそと 鉄斎
読み方: ふくはうち おにはそと ほりだして ゆかいにいわう としはじめかな
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無名舎(吉田家)の夏風情
この1Fの奥の間(南側)に鉄斎の扁額がある。
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無名舎(吉田家)
中京区蛸薬師上ル
35.00656694306789
135.75660288333896
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18
35.00656694306789,135.75660288333896,0,0,0
富岡鉄斎とは
「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だった
富岡鉄斎 - Wikipedia
富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)- 1924年12月31日(大正13年))は、明治・大正期の文人画家、儒学者。 日本最後の文人と謳われる。 一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。 字を無倦、号を鉄斎。 別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。 京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。 富岡家の家学である石門心学を幼少の頃から学ぶ。 15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。 座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。 明治維新後、神社の復興を念願して石上 (いそのかみ) 神社少宮司,大鳥神社大宮司として献身的に尽力し,鉄史,鉄崖と号した。 明治14年(1881年)兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し終の住処とする。 明治21年(1889年)から明治26年(1894年)まで車折神社(くるまざきじんじゃ)の宮司を任める。 明治26年(1893年)から明治37年(1904年)まで京都市美術学校で教員に就任し修身を教える。 「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。 また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。 その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。
車折神社(くるまざきじんじゃ)の宮司
1889年(明治21年)から1894年(明治26年)まで車折神社(くるまざきじんじゃ)の宮司を任めた。 車折神社には鉄斎の作品が約百余点伝わり、財団法人車軒文庫が管理している。 境内には鉄斎の筆によるものとして 裏参道入口の社号標 本殿の扁額 表参道脇の車折神社碑 がある。 さらに鉄斎が生前に用いた筆を2000本以上納めた筆塚も存在する。
橋弁慶山の前掛:「椿石(ちんせき)霊鳥図」綴錦
以前は、中国明頃の雲龍波濤文様の綴錦でしたが、昭和58年に富岡鉄斎の作「椿石(ちんせき)霊鳥図」に新調された。 原画は、清荒神所蔵の衝立です。 本綴錦は、原画と同寸法に織成されていて、原画の高雅な趣きを十二分に伝えています。
鉄斎による「福ハ内」のコピー
大正時代に、山元春挙画伯が「福ハ内」のために描いた「福ハ内」の「お多福豆」の絵と 文人画家富岡鉄斎の賛。 このうまき 大多福豆を めしたまえ よはひをますは 受合申す
清荒神清澄寺 鉄斎美術館案内(2018年版)
聖光殿「鉄斎美術館」は、清荒神清澄寺第37世法主光浄和上の理想とその意志を継承して、半世紀以上にわたって蒐集されてきた画聖、富岡鉄斎の作品を広く公開展示するために第38世法主光聰和上が昭和50年(1975)4月、清荒神清澄寺の境内に開館しました。
鉄斎と同時代人
ポール・セザンヌ - Wikipedia
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが、近年は23日説が有力[注釈 1]))は、フランスの画家。 当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。 ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
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